昔、サムエルという預言者がいました。
イスラエルにまだ王がいなかった頃、神様は人を選び、御心を伝えていました。
しかしイスラエル人は、隣国のように王を欲しがるようになりました。
それは約3000年前の話です。
王を欲しがる国民に対し、サムエルは抵抗し切れなくなり、サウルを王に立てました。
サウルは背が高く、ハンサムでした。
しかしサウルには神に対する畏れより、人に対する恐れの方が強いという問題がありました。
国民の声を気にするあまり、神様の言いつけを守らず、神様から退けられました。
サウルを任命したサムエルは、落ち込みました。その
次の王を選ぶべく、神様はサムエルに「いつまで悲しんでいるのか」と語りました。
そしてサムエルは第2代の王となる人物を探しに行きました。
結果、ダビデが選ばれました。
しかしダビデが王に即位できたのは、何年も後の事です。
ダビデは非常な恐怖と苦痛を伴う訓練を通らされました。
サウル王の嫉妬により、命を狙われ、逃亡者としての生活を繰り返しました。
結果的に、サウル王が戦死したのを機に、ダビデが第二代目の王となりました。
ダビデは2度サウルを殺す機会を得ましたが、決して王を殺す事はしませんでした。
サウル王も元はと言えば、神によって立てられた王だからです。
ダビデは皆から好意を持たれ、王位を確立しました。
そしてそのダビデの家系から、イエス様は誕生するという預言が後に与えられました。
それほどダビデは神様に忠実な人でした。
旧約聖書の史実から学ぶ事は多いです。
「体は殺せても、魂を燃える地獄に投げ込む事の出来ない人間を恐れるな」
「死後、永遠の燃える地獄に投げ込む神様を恐れよ」とイエス様は言いました。
サウル王のように、人の顔色を伺う方が簡単です。
ただ、誰からも好かれようとすれば、何もできなくなってしまうものです。
結局は、神様から与えられた事を信じて行うのが良いです。
サムエルのように、自分の面目が保てなくなり、挫折しても、また新しい王を探しに行かねばなりません。
サウル王の事が自分にとってリスクとなるのは分かっていても、進みました。
それは我々にとっては新しいビジョン、希望、夢なのかも知れません。
言い換えれば、また次のチャンスを神様は下さるという事です。
「サウル王を教育できなかった自分ももう、預言者として失格だ」
と思っても仕方ありません。
それでも、チャンスを頂いたならば、立ち上がって進むべきなのです。
ダビデのように、まだ少年なのに王として選ばれた光栄があったとしても、その後はしばらく何の変哲もない羊飼いの日々の繰り返しでした。
そして突然、戦場にて、巨人ゴリアテとの一騎打ちに勝利し、一気にスターとなりました。
しかし、その後もまた羊飼いに戻りました。
そんな中、サウル王が鬱になり、その気分を晴らすために、たて琴奏者として王家に招かれ、また戦争にも出るようになりました。
そこまでは、緩やかな上昇人生でしたが、戦争で成果を上げると、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と騒がれるようになったのです。
サウルは嫉妬に駆られ、ダビデを槍で刺し殺そうとしました。
それからダビデの逃亡生活が何年も続くのです。
洞穴で隠れていた時に、サウル王と従者たちが用を足しに入って来ても、殺そうとはしませんでした。
2度おなじ事がありましたが、自分のけじめを貫きました。
権力者の嫉妬は恐ろしいです。
しかし、どんなに危険に晒されても、神を信頼し、自分の命は神によって守られていると信じるのは驚きます。
しかも仕返し、復讐もしないという態度は真似するのは難しいです。
サムエル記は第1、第2があります。
いきなり読もうとすると、ちょっと難しいです。
でも、こんな感じでおおまかにストーリーを知っておくと読みやすいかも知れません。
3000年前の書物ですが、忠実な史実です。
なぜなら自国の歴史なのに、都合の悪い話ばかり満載なのです。
失敗談だらけです。
僕は、旧約聖書は人生の縮図だと思っています。
ここに僕の人生が全て詰まっているようです。
失敗だらけの人生です。
しかし、そこには常に神様の恵みと、許しと、次のチャンスがあるのです。
昔は分かりませんでしたが、今はそんな風に毎朝聖書の言葉を受け取っています。