「言葉を文字にして、行動し、その言葉の意味を確認する行為が大切」だと「モノづくり原論」という本に書かれていました。 会話だけでは忘れてしまうからです。 しかしよくあるコピーのような漠然としたものではダメです。 「水と生きる」「そうだ京都、行こう」みたいなのは意味不明過ぎです。 イメージだけを売りにしている言葉には、受け取る側で意味が変わります。 具体的で、しかも行動しなければいけません。 行動したあとで、その言葉の意味を再考し、定義していくのです。 聖書は旧約聖書の時代から神学として成り立っていました。 理論の裏付けもしっかりしている事、それが日本の宗教との絶対的な違いです。 「信じる心は素晴らしい」程度の言葉だけでは「何を信じているのか?」「どうして信じるのか?」「信じるに値するものか?」が分かりません。 「先祖を敬う」「何かを信じる」これは当たり前過ぎです。 人として当たり前の気持ちに訴えているに過ぎません。 聖書の場合、今もなお神学は時代と共に進化しています。 というか、今こそ太古の不思議が解き明かされつつあります。 太古から書き残して来たからこそ出来るのです。 これまでの常識が覆され、教科書も全て騙しだった事が、近い将来には解るでしょう。
もちろん全ての学問が騙しとは言いません。 でも、聖書に限らず、自分に関する事も全て、結局は自分で吟味せよ、と教えられているような今日この頃です。
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