ハイパーインフレ…ブラジルで過ごした最初の4ヶ月は、経済長期低迷期最後の4ヶ月でした。 当時、僕はお金をかけないで生活していました。 ハイパーインフレでは、お金をおろしてもすぐにお金の価値が下がります。 それにまとまった現金を持っているのも、ブラジルでは危険です。 よってお金を使わない生活を余儀なくされましたが、ラッキーな事に助けが… ブラジルのハイパーインフレ… Wikipediaによると、1986年から1994年までの8年間に、2兆7500億分の1のハイパーインフレーションが生じたとあります。 1993年、通貨がレアルに変わる前年のインフレ率が2489%でした。 検討もつかない数字ですね。 色んな統計がありまして、下図では1993年は2477.15%です。 1000円のTシャツが1年後には2万4771円に値上がります。 80年から94年にかけての年間インフレ率の平均は728.55%です。 レアルに変わってからの平均は7.33%にまで落ちました。 数字的にはこんな感じです。 実際にはどんな生活だったかというと… 給料日に買い込むという感じです。 給料日が最もお金の価値が高いので、すぐモノに変えておかねばなりません。 ショッピングセンターでは、みんなカートに目一杯詰め込んでいました。 明日になったら、同じお金でも買えなかったりする訳です。 ブラジルに行く前は、日本に出稼ぎ労働している彼らに驚いたものです。 すごい衝動買いするよなあ、と。 日本に来て、モノが溢れて、何でも買えるという誘惑だけでなく、ハイパーインフレによる脅迫感が染み付いていたのかもしれません。 ハイパーインフレでは、経済弱者が上にのし上がる事は不可能です。 だから家族、親族、友人、近所仲間で助け合うに限ります。 今はどうか知りませんが、当時のブラジルの学校では勉強は半日だけでした。 午前、午後に分かれていて、半日は働いて家計を助けます。 子供が普通に車の修理の手伝いなどして、働いていました。 女の子は大抵家政婦です。 ですので、料理、洗濯(洗濯板で洗います)、掃除(モップがけ)がしっかりできたりします。 当時の最低賃金が、7000円/月だったのを覚えています。 僕の住んでいたキリスト教宣教団体の寮にも、家政婦がいて、僕の部屋を掃除してもらってました。 10代の年頃の女の子に、僕のトイレなどを掃除して貰い、心苦しかったのを覚えています。 移動手段はバスでした。バスに乗るのも驚きでした。 バス賃が確か、毎週か隔週で値上がりして行きました。 「この値上げが永遠に続くのか…」 そんな驚きと恐怖を覚えています。 1994年の6月、ハイパーインフレ最後の月は何と47.63%でした。 毎月40%を超えるインフレ率、何となく想像できるでしょうか? バス代がいくらか覚えていないので、分かりやすくいうと… 例えば、100円のコンビニコーヒーの場合 1月に100円だったとすると、2月には140円、3月には196円、4月には274円、5月には384円、6月には537円という具合だったのです。 ブラジルは危ないので、父がクレジットカードを持たせてくれました。 しかし、当時ブラジルの田舎でカード払いできる店はありません。 現金を持つのも危険ですし、すぐにその価値が目減りします。 そもそもキャッシングできる銀行もありません。 1時間バスに揺られてセントロ(中心街)まで行き、1件だけあったので必要なだけおろして帰るという生活でした。 お金を使わない生活を強いられます。 どうやって暮らしていたのかというと… そもそもお金を稼げない身分でした。 何も知らなかった僕は、観光ビザでブラジルに行きました。 その身分では働いて給料をもらうことはできません。 しかしアメリカ人宣教師の家族がやっていたバンドが、僕を招いてくれました。 給料の代わりに、部屋と食事などを支給して貰い、結果その方が助かりました。 お金を持つよりシンプルです。物々交換というか、サービスと物の交換です。 こういう生き方もあるんですね。 インフレに慣れていない僕にはありがたかったです。 インフレが終わってからの半年は、バンドのメンバー(ブラジル人)とアパートを借りて住みました。 ハイパーインフレというと、カオスな状態を想像するかもしれません。
でも意外にみんな楽しそうに暮らしていました。 彼らは人生を楽しむプロです。 もちろん給料もインフレで上がるのですが、もらった給料はどんどん目減りします。 車や家などを買う事は難しいです。 貧乏から決して抜け出られない状況でした。 それでも明るく陽気なアミーゴでした、そんな彼らを愛さずにいられません。
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