「何を信じて生きている?」
この問いは忙しいと聞こえてきません。
しかし漠然と生きていたとしても、漠然と何かを信じているはずです。
何を信じているのか?は、なぜ生きているのか?に通じます。
何も信じるものがないなら、「何も信じないこと」を信じています。
「何となく信じるものが欲しい、けれど考えるのが面倒だ」という人も多いかも。
「みんながそうだし、それでいいじゃん。忙しいし。」
それで済むのは元気な時、若い間でしょう。
年老いて、もう何の喜びもない、死ぬのを待つのみとしたらどうでしょう。
「もっと納得した生き方をすれば良かった」
と思うに違いありません。
それは「死に際の後悔」のトップ1として有名な話ですから、そうでしょう。
「やりたい事」をするにも、「なぜやるのか?」がつきまといます。
そして「なぜ?」をしつこく繰り返すと、「そもそもなぜ生きているのか?」に辿り着きます。
そうならないとしたら、「なぜ?」の追求がユルすぎです。
歴史を通じて、「哲学」や「宗教」が必ずあるのは、その理由です。
「日本人はみんなと同じでいる事で安心する」と言いますが、死に際も同じ後悔をすれば、それで安心するのでしょうか?
「それが日本人だ」と言うなら、僕はそんな日本人でいたくありません。
「人生は素晴らしいもの」だと僕は聖書を通して信じています。
「神様によって僕は造られた」「神様に愛されている」「すでに永遠の命を持っている」など、超ポジティブな聖書の言葉を信じています。
「どうせ生きるなら、聖書の明確な約束を信じる方がいい」と思ってます。
「なぜ生まれてきたのか分からない」「なぜ生きているのか分からない」「死んだらどうなるか分からない」
それらに対する、漠然とした解説本は沢山あります。
しかしそれらは色んな宗教や哲学、科学の寄せ集めです。
「いいとこ取り」の賢い言葉で説明するものの、断言はしてくれません。
「愛が全て」とみんなが共感できる話を展開しますが、聖書に匹敵する「愛のストーリー」はありません。
「自分は何を信じて生きているんだ?」
「何か信じられるものってあるのか?」
本当にあるなら、そう言い切っているはずです。そしてそれが聖書なのです。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 新約聖書 ヨハネによる福音書 11章25~26節