狂った世界になりました。
希望が必要です。
しかし、希望はすでにあります。
狂った世界
動画を見て、狂気を感じるはずです。
ありもしないパンデミックに、異常な反応をするよう洗脳しました。
そして我々の自由を奪っています。
これは決して終わりません。
徐々にエスカレートします。
だから、抵抗するしか方法はありません。
希望はあります。
リン・ウッド弁護士のような戦士が、政治家となればチャンスはあります。
彼は人を感化します。
彼の熱い姿を見て、立ち上がる人、立ち上がった人は、どれほどいるでしょうか?
ウッド弁護士に、神様の守りと祝福があるように。アーメン。
リン・ウッド弁護士
朝目覚める時、その日が「完全な父である神からの祝福」である事を覚える。
彼に感謝を捧げ、その日の導きを求める。
今朝、友人であり、キリストにある兄弟、愛国者の同志である、フリン将軍から親切な言葉を頂き(共和党サウスカロライナ州議長になる事の推薦)祝福された。
なんと素晴らしい1日のスタートだろう…フリン将軍に重ねてお礼申し上げたい。
共和党サウスカロライナ州議長として、人々へ仕える私の努力へのサポートと友情のために…ありがとう、マイク。
推薦の表明
心からリン・ウッド氏を、共和党サウスカロライナ州議長に推薦します。
それは私の誇りであり、特権です。
リン氏こそ、適任者です。
今サウスカロライナ州は、リン氏のリーダーシップを必要としており、我が国は彼の勇気、知性と愛国者精神を必要としています。
リン氏のためにお祈り下さい。
彼のような、神を恐れる男が私たちの側にいる事を、主に感謝して下さい。
引き続き彼が、喜んで立ち上がり、我々の自由のために、戦ってくれる事を、主に感謝して下さい。
なぜ?
- 今こそ我々は、立ち上がって行動する愛国者を必要としている事を、知り、認める時だから
- 法の支配のために戦って来た、彼の偉業を調べて下さい(政府の汚職、裏取引との戦い、我々の周りにある暗闇に光を当てるなど)
- 彼は新しい隣人(リン氏はサウスカロライナに引っ越したばかり)のため、共和党を「我ら市民」のための党に、取り戻すために尽力しています
- リン・ウッド氏はサウスカロライナ州の人々を通し、正直さを共和党と政府に取り戻します
イザヤ書6:8 私は、「誰を遣わそう。誰が我々のために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わして下さい」
十字架上の7つ言葉
イエス様は十字架上で7つの言葉を残しました。
ハイドンがそのタイトルで作曲したほど、有名です。
Wikipediaからの引用
第1の言葉編集
- 「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節)午前9時に十字架につけられた時の言葉である。このイエスの祈りは、有力な写本BやDにはない。故に新共同訳聖書では真正性を疑われるものとして、カッコ書きされている。しかし、ステパノの殉教の記事は本節を前提にしていること、ルカの神学とキリストの精神に調和していることから、伝統的解釈では、真正性を認めている。[1]
第2の言葉編集
- 「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節)イエスと共に十字架にかけられていた二人の罪人のうち一人がイエスを「神の子なら自分と俺達を救って見せろ」と罵ったのに対して、もう一人が「我々は当然の報いを受けているだけだが、この人は何の罪も無いのだ」と諭し、さらにイエスに「神の国で、私の事を思い出して下さい」と語りかけた。それに対する返事である。
第3の言葉編集
- 「女よ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節)母マリヤと弟子のヨハネに言った言葉で、ヨハネにマリヤを支えることを依頼したもの。これにより、ヨハネがマリヤを引き取ることになった。[2]イエスの言葉を聞いた、その時点から、ヨハネはイエスの本意を理解して、マリヤをつれて十字架のそばを離れて、エルサレムの自分の家につれていったとも解釈される。[3]
第4の言葉編集
- 「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節)3時頃にキリストが大声で語った。大声と言うのは全地に響き渡っていくという意味がある[4]。詩篇22篇と関連のある言葉である。神への呼びかけは、マルコでは「エロイ」、マタイでは「エリ」である。周囲の人々はエリヤを呼んでいると誤解した。多くの解釈では、詩篇22篇からの引用であるとしているが、より少数の解釈では、詩篇22篇からの引用ではなく、神がイエスを見捨てた事を指しているとしている。伝統的にはイエスが事実上、罪人の身代わりになって罪の裁きを受けたことを表す叫びと解釈される。イエスが神を「父」とは呼んでおらず、審判される側に立ち、自己を罪人と完全に一つにして、神の裁きを受けているとされている。[5]
第5の言葉編集
- 「私は渇いている(ディプソォー)」(ヨハネの福音書19章28節)イエスは聖書が成就するために、この言葉を発した。これは、詩篇22篇16節、詩篇69篇22節もしくは詩篇42篇3節の成就であると考えられている。この言葉を兵士は、肉体的な渇きであると理解して、酸いぶどう酒を持ってきた。
第6の言葉編集
- 「完了した(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節)兵士達が差し出した酸いぶどう酒を受けた直後に、この言葉を語った。
第7の言葉編集
- 「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節)
巷で見られる卵やうさぎとは?
イースターとは?最近見かける卵やうさぎには何の意味があるのでしょう。
キリスト(メシア)の復活を祝うのがイースターです。
では、なぜ復活を祝うのか?それはまずその死について知る事から始まります。
キリスト教ではクリスマスよりも復活祭の方が重要です。
そこにキリスト教の真髄があるからです。
もう一つの根強い伝統は、イースターを祝うとき友人に赤く染めた卵を贈るというものである。この習慣はマグダラのマリアに起源を持つ。キリストの昇天の後、彼女はローマ皇帝の元に赴き、赤い卵を贈って「イエスが天に上げられた」ことを示した。それから彼女は彼にキリスト教を説き始めたのである。卵が象徴するものは、墓と、そこから抜け出すことによって復活する命である。
赤は、卵で示されるように、キリストの血によって世界が救われることを表し、またキリストの血によって人類が再生することを表している。卵そのものが復活のシンボルであり、休止の間もその内側に新しい生命を宿している。 - ウィキペディアより引用
また、こういうのもあります。
卵を飾る習わしは、キリスト教および復活祭よりもかなり古くから存在する。卵とウサギは、古来より豊壌のシンボルだった。ユダヤ教の過ぎ越しの祭の正餐(セーデル・シェル・ペサハ)では、塩水で味付けをした固ゆで卵が、エルサレムでの新しい命と信仰のシンボルとして食べられる。中央アジアの新年ノウルーズの象徴的な食卓にも卵が必須である。 - ウィキペディアより引用
うさぎは豊穣のシンボル
うさぎは豊穣のシンボルだから、復活とマッチするんでしょうか?
しかし、そもそも復活祭から出来たものではなさそうです。
キリストの復活を祝うというメッセージとは、無関係ですし。
豊かな命をイメージさせるだけのようです。
うさぎも卵も実は、聖書には何も書かれていません。
本当のメッセージが隠されて、違うメッセージにすり替えられています。
本当の意味を伝える教会では、それらを用いても自由ですが。
ただし、本当の意味を語ります。
僕の経験上、卵やうさぎの話が教会の中で大きく取り上げらた事はありません。
クリスマス=サンタクロースと同じビジネス戦略です。
大切なメッセージには蓋をして、何か知らないけど楽しければいい…儲かればいい、盛り上がればいいという魂胆です。
あまりに長引く不景気からか、もはや何でも良い日本になってしまいました。
とにかくモノが売れて欲しい、それだけです。
十字架刑、そして復活
復活を説明する前に、十字架刑を説明しないと、意味不明となります。
キリストは、宗教学者たちの妬みによって、処刑されたとされています。
しかし、奥義があるのです。
そもそもイエス様が来られたのは、人類の罪の罰を身代わりに受けるために、十字架にかかるためでした。
その犠牲を信じる人は、永遠の命を持つのです。
旧約聖書には色んな預言があります。
その中の一つにメシア預言というのがあります。
救い主がいつ、どこで、どのように生まれ、どのような生涯を過ごし、どのような死に方をするかが断片的に書かれています。
パズルのように、色んな時代、場所、人を通して預言がなされました。
後になって、旧約聖書に書かれていた事がキリストの生涯だった…とわかりました。
しかし、そもそもイエス様は、「それらの預言は自分についてのものだ」と繰り返し言っていたのです。
また、旧約聖書の出来事を通して、イエス様の生涯を表す事もあります。
その最重要イベントが、出エジプトです。
エジプトからの奴隷解放
十字架刑は、ユダヤ教の型を成就させたものです。
旧約聖書の最も重要な出来事の一つに、エジプトの奴隷生活からの解放があります。
モーセがイスラエル民族を、エジプトから脱出させた経緯が鍵となっています。
エジプトにとって重要な労働力だった奴隷を、ファラオはなかなか解放しようとしません。
神は10の災難を通して、強情なファラオに解放を迫りました。
最後の災いはエジプト中の初子が死ぬというものでした。
この時にイスラエル民族に対し、その災いを避けるためにある事を命じました。
「子羊を生贄として殺し、その血を家の門に塗りなさい。そうすれば災いは及ばない」
エジプト中で泣き叫ぶ声が響きわたる中、イスラエル人の家族だけは無事でした。
ついにファラオは彼らを解放しました。
奴隷からの解放、子羊の生贄…イスラエル人はこの儀式をずっと続けるようにと神に教えられました。
これを過越の祭りと言います。
それは将来起きる事へのモデルとなりました。
イエスは過越の子羊となるために
イエスの使命はキリスト(メシア)として、過越の子羊になる事でした。
神は人を死から解放するために、その型をユダヤ民族を通して表していた…
これが聖書の理論です。
生贄になる事だけでなく、色んな描写がなされていました。
十字架と埋葬、復活に至るまでの預言が、旧約聖書には散りばめてあります。
こちらの記事で細かく説明していますので、一読をお勧めします。
だから処刑は自ずと、過越の時期だとイエス様も知っていました。
そしてそれに合わせて状況も動きました。
イエスが宮に行った時に、群衆は彼をメシアとして歓迎しました。
彼をどんな風に思っていたのか?
ローマの虐げから解放する王、と勘違いしていました。
弟子たちに至っては、誰がどの大臣になるかなどと考えてました。
しかしイエス自身は、全く政治には無関心でした。
覚悟を決めて、エルサレム入りをしたのです。
イエス自身が何度も予告
宗教学者たちは、妬みと恐れを感じました。
イエス様が自分たちよりも、人気があったからです。
また、ローマ軍がイエス様の人気を見て、クーデターを企てていると捉えたら、彼らの身にも危険が及ぶと恐れました。
そして殺すのが良い、となりました。
しかし以前から、イエス様ご自身が何度も、「宗教学者たちによって、異邦人に渡されて処刑される」と予告していました。
さらに三日目に蘇ると、宣言していました。
それも旧約聖書の預言が成就するためだと。
弟子たちが望んでいたのは、自分たちが高官になる事だけです。
ユダの裏切りを知らせる
ユダの裏切りは有名です。
彼はお金の管理者でした。
聖書には、度々その金を着服していたと書かれています。
イエス様が政治に無関心なのを見て失望し…師匠を売りました。
最後の晩餐でイエス様は「弟子の一人が自分を裏切る」と言いました。
全ての弟子は、そんな事はないと否定しました。
イエス様は、一番弟子のペテロに「鶏が鳴く(つまり数時間後である夜明け)前に私の事など知らない、と3度否定するだろう」と言いました。
またユダには「あなたがしようとしている事を、すぐしなさい」と伝えました。
ユダはすぐさま、宗教学者たちの元へ行きました。
彼らはイエスを逮捕するために、居場所を知りたがっていたのです。
ユダは「イエス様の居場所」という情報を銀貨30枚で売りました。
銀貨30枚で売られる事も、旧約聖書に預言されています。
イエスは恐れなかったのか?
最後の晩餐の後に、ゲッセマネの園という場所に、祈りに行きました。
ユダはその場所を教えました。
イエスは逮捕される事を承知で、ここまで来ました。
その刑の恐ろしさに、悶絶しながら祈ったとあります。
ここが本当の戦いだったと言えます。
なぜなら、十字架を拒否する事も、出来たからです。
「もしできる事ならば、この事態を避けたい…けれどもお父さんの思いのままにして下さい」
汗が血のしずくのように流れた、とあります。
拷問の数々と、神様からの裁きを受ける霊的な恐怖が大きかったと思われます。
これらに向かう決心をしたところで、武器を持った兵士たちがやって来ました。
「ゲッセマネの祈り」と呼ばれるこの場面こそ、イエス様の最大のピンチであり、戦いでした。
その戦いに勝利し、十字架へと向かうのでした。
逃げた弟子たち、ペテロの裏切り
イエスは逮捕しにきた者たちに、「弟子たちを去らせなさい」と言いました。
弟子たちは、皆逃げました。
つい先ほどの晩餐では、絶対に裏切らないと言っていたのに…
その後、ペテロとヨハネは後をつけて行きました。
イエスが辱めを受けるところを眺めながら、焚き火に当たっていました。
「お前、あいつの弟子だろ?」
「いや、違う。イエスなど知らない」
3度質問され、否定したのち、鶏が鳴きました。
ぺテロは外に出て激しく泣いた、と書かれています。
イエス様が大ピンチというのに、保身に走ったペテロでした。
拷問
まずローマ兵によるリンチがありました。
その後にローマ総督の元で、裁判にかけられました。
総督ピラトは、宗教学者たちの妬みだと知っており、
「この人には何の罪もない」
と釈放する事をいいました。
しかし宗教学者たちは群衆を先導し、十字架につけるよう叫ばせました。
暴動に至る事を恐れた総督は、その場で手を洗いました。
「自分はこの死刑とは無関係だ」とし、イエスの処刑を言い渡しました。
十字架刑
十字架につけられる前に、39回の鞭打ち刑がありました。
鞭の先には骨や鉄がつけられていて、打たれる度に肉が剥がれます。
背中はズタズタで、すでに出血多量で瀕死の状態でした。
そこから自分の十字架を背負って、ゴルゴタの丘まで歩いて行くのです。
そして十字架につけられて、晒し者になりました。
絵画や映画では、下着がありますが、本当は素っ裸です。
両手足を極太の釘で打ち込まれ、自分の体を支えます。
映画ではロープや足台などがありますが、実際はありません。
苦しむイエス様に、群衆や宗教学者たちは罵りました。
「他人は救ったが自分は救えない」
「救い主だったらそこから降りてこい、そうしたら信じるから」
それに対して、
「お父さん、彼らを許してあげて下さい。自分で何をしているのか分かっていないのです」
と言いました。
正午から暗黒が地を覆いました。
イエス様は神様を「お父さん」「お父ちゃん」と、親しく呼んでいました。
しかし、一箇所だけ「我が神」と何故か他人のように呼んだのです。
聖書の中でここだけです。
正午からの暗黒こそが、裁きのクライマックスです。
イエス様が大声で叫んだと書かれてます。
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」
実は聖書にはこの悲痛な叫びが、原語(アラム語)で書かれています。
なぜか?
恐らく、その叫びがあまりに壮絶だったため、原語で残したのだろうと言われます。
それほど、恐ろしい響きだったのでしょう。
十字架の上で、この一言以外は全て、「父ちゃん」と呼んでいます。
この叫びから、神様から本当に見捨てられたのだと見受けられます。
イエス様は苦しみの中で、大声で叫びましたが…
本来、誰の叫びでしょうか?
我々の叫びでした。
それを代わりにしてくれたのです。
そしてその後「完了した」と言いました。
何が完了したのでしょうか?
これは人間の罪の罰を支払った、という意味です。
実は原語では「完済した」です。
我々の負債は完済されたのです。
生贄の子羊としての役割が終わったのです。
そのためにイエス様は来られたので、「任務完了」でもあるのです。
「お父さん、我が霊を御手にお委ねします」
そう言って生き絶えたイエス様は、ローマ兵に槍で突き刺されました。
完全に死にました。
もう肉体はボロボロです。
朝9時から午後3時の十字架刑でした。
普通より早くイエス様が死んでしまい、確認のためにも、槍で突かれました。
普通より早く死んだのは、前夜からのリンチと、鞭打ちなどで既に出血多量だったからと思われます。
だから「本当は死んでいなかった」という事はあり得ません。
ローマ兵は処刑のプロとして、死を確認せずに、刑を終了させる事はないからです。
役目を果たせなかったら、彼らが責任を負う羽目になります。
墓に葬られたが、三日目に蘇った
イエス様の遺体は、金持ちの所有する墓に葬られました。
大きな岩で、墓の入り口に蓋がされ、番兵がおかれました。
宗教学者たちが、イエスの復活を恐れて、ローマ総督に頼んで番兵をつけたのです。
しかし三日目にイエスの遺体はなくなったのです。
今も墓は空っぽです。
宗教学者たちは、番兵たちに多額の金を払い、「弟子たちが夜来て遺体を盗んで行った」と証言させました。
それでそういう説もありますが、破綻しています。
弟子たちが、プロの兵隊に立ち向かえるでしょうか?
さらに遺体を担いで持っていくでしょうか?
そもそも彼らは、イエス様を置いて逃げたのです。
いつ捕まるかも分からない恐れの中で、リスクを犯すでしょうか?
蘇ったイエスは弟子たちに現れました。
いくつかのエピソードが書かれています。
40日間、色んな場面で現れては消えていく、という感じです。
一度に500人以上に現れた、とも聖書に書かれています。
変えられた弟子たち
逮捕を恐れて、隠れていた弟子たちでしたが、イエス様の復活を証言し始めました。
宗教学者たちは、弟子たちを迫害しました。
しかし脅しに屈する事なく、大胆に証言を続けました。
また復活を目撃した多くの人たちも証言をするので、どんどん広まりました。
そして宗教学者たちだけでなく、ローマの迫害も始まりました。
迫害は極まり、弟子のほぼ全員が処刑されたのです。
新約聖書の大部分を書いたパウロは、そもそも弟子たちを迫害していた人でした。
しかし回心して、偉大な使徒となりました。
最後は彼も処刑されました。
人は、嘘を伝えるために死ぬでしょうか?
「嘘だと認めたら助けてやる」と言われてもなお、拷問を耐え、死を選ぶでしょうか?
復活が嘘なら、誰かが本音を漏らすはず。
そもそも彼らは全員、師匠を裏切った弱虫でした。
「見つかったら自分も殺される…」と怯えていたのです。
臆病者でした。
なのに、公に出て行くでしょうか?
復活という嘘に、命をかけるでしょうか?
カネにも名誉にもならないでしょうに。
真実だからこそ、命をかけて伝えたのです。
死んだ聖人、宗教家を伝えているのではありません。
生きている方、死の力を打ち破った方だからこそ、伝えるのです。
復活こそキリスト教の真髄
ということで、復活がキリスト教の根幹なのです。
復活を信じる事が、キリスト教なのです。
クリスマスを祝う以前から、復活はずっと祝われて来ました。
復活こそ希望です。
死の支配は終わった、肉体の死を迎えても神の元に行く事ができる…
それは自分の罪の罰をキリストが身代わりに受けてくれたから。
もっと知りたいという方には、こちらの記事をおすすめします。
どんな有名人でも、金持ちでも、普通の市民でも、死の問題から逃れる事は出来ません。
しかし死の解決は既にあるのです。
イエス様があなたのために、十字架にかかって身代わりに死んで下さいました。
そして死んだだけでなく、復活されました。
我々は死の力を打ち破った方を信じるのです。
他の宗教の教祖は皆死にました。
イエス様だけが、死の力を打ち破りました。
イエス様に、希望があるのです。
聖書の難しい話を知らなくても、このシンプルなメッセージを信じるなら、あなたは救われ、神様の子供とされるのです。
そう聖書が約束しています。
是非、こう祈りましょう。
「神様、イエス様を遣わして、私の罪の身代わりとして、十字架の贖いを完成させて下さり、感謝します。また、死の力を打ち破り、今も生きておられる事を信じます。イエス様の名前によって、祈ります。アーメン」